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2011年08月09日
旅の続き2
40キロほど走ると、奥松島に着いた。
ガレキの山となってしまっていた南三陸町とはまた違う被害。
ほとんど家は残っていても、全ての建物の半分位まで津波が入ったようで、へドロの臭いもかなりキツク、とても人が住める状態ではない様子だ。
一年や二年では復興は難しいのではないだろうか?
そんな印象をうけた‥。
最近は段々被災地の報道が減ってきたが、まだまだ支援の必要性を考えさせられる場所だった。
日本三景の一つと呼ばれる、五大堂を望む景色は不幸中の幸い、美しい景観を残していた。
もちろん震災の被害がなかった訳ではないが、予想よりはるかに被害がすくなそうに見える。
海にに浮かぶ島々が、津波の被害を少なくさせたのだろうか?
さらに300キロほど走り、福島県伊達市着。
一面に広がる大自然
13年前に感じた福島の印象は、今となっても一見は変わらない‥が‥。
人間にとってもっとも‥もっとも大切な物を、人間は守る事ができなかったんだな。
奥歯が痛くなった。
海から60キロ離れているので、もちろん津波の被害はないが、地震の影響で、屋根が崩れたり、基礎にヒビが入っている家は多いようだ。
15時
目的地の、ご夫婦宅に着。
3年前に訪れた時と同じ笑顔で迎えてくれた。何度も電話では話したが、直接顔を合わせると少し安心する。
やはりこちらのお宅も例外でなく、家の屋根が崩れたり、風呂のタイルが剥がれたりなどの被害はあったそうだが、すでにご自分で修復済みだった。
家にお邪魔するとすぐに、震災後の話しをしてくださった。
地震から3日間は、外にテントを張って寝た事。
原発爆発後、60キロほど離れたいわき市にいる息子さんを伊達市に呼んだが、後々風向きが伊達市方面に吹いていたと、テレビで知らされた事。
お孫さんの通っていた中学校のグラウンドが、一番多い時で、毎時7マイクロシーベルト以上あった事。
ご夫婦宅の中は線量が低く、避難しなくてはいけないレベルではないそうなのだが
いわゆるホットスポットとして、特定避難勧奨地域に指定されている霊山町も隣町にあり、「安心」という訳にはいかない事。
もちろん、すぐに健康に影響がある訳ではないが、お孫さんを心配そうに見つめるご夫婦の目は、忘れる事が出来ないほど悲しい目だった。
2時間ほど会話をして、夕焼けがさして来た頃、ご夫婦は「地震だけなら‥まだよかったんだけどなぁ。」と呟いた。
「よかったら食材なんかを送りますよ‥
」
そんな提案をしてみたが
「市の方から毎週、食品の検査結果と各町の空間線量結果の資料が届くかららとりあえずはきっと大丈夫だろう。
もう一度爆発があったらすぐに避難するからその時はお願いするよ。」
おじさんは笑いながらそう言った。
17時30分
そろそろ帰ろうとすると、奥さんが手編みの子供用のセーターを渡してくれる。
ウチの子供に編んでくれたそうだ。
「原発が爆発する前に編んで、ちゃんとしまっておいた物だから、大丈夫だと思うの。
ちょっと前に贈ろうと思ったんだけど、お父ちゃんが、福島の物を今贈るのはやめどけ。っていうもんだから、どうしようと思っていたんだけど‥
本当にちゃんとビニールに入れて奥にしまっていたから、よかったらもらってくれるかね?」
もちろん喜んで頂き、車に乗った。
ご夫婦とお孫さんも、見えなくなるまで見送りをしてくれていた‥。
静岡に帰る道のりでずっと考えていた。
なんでこんな事になってしまったのか?
恩人の生活を脅かし、今や日本中までも脅かしている放射能とは一体どんな物なのか?本当にそんなに怖いものなのか?
これから何十年という単位で戦い続けないといけない。と言われてる、放射能問題。
すでに小さいお子様連れるママさんが多い当店では
食材の産地を気にしたり、外食を控えてるなんて声も増えて来ているのも事実。
1500キロの道のりを走り終える頃
まずは、放射能についてもう少し掘り下げて調べて、戦っていこうと決めた。
ガレキの山となってしまっていた南三陸町とはまた違う被害。
ほとんど家は残っていても、全ての建物の半分位まで津波が入ったようで、へドロの臭いもかなりキツク、とても人が住める状態ではない様子だ。
一年や二年では復興は難しいのではないだろうか?
そんな印象をうけた‥。
最近は段々被災地の報道が減ってきたが、まだまだ支援の必要性を考えさせられる場所だった。
日本三景の一つと呼ばれる、五大堂を望む景色は不幸中の幸い、美しい景観を残していた。
もちろん震災の被害がなかった訳ではないが、予想よりはるかに被害がすくなそうに見える。
海にに浮かぶ島々が、津波の被害を少なくさせたのだろうか?
さらに300キロほど走り、福島県伊達市着。
一面に広がる大自然
13年前に感じた福島の印象は、今となっても一見は変わらない‥が‥。
人間にとってもっとも‥もっとも大切な物を、人間は守る事ができなかったんだな。
奥歯が痛くなった。
海から60キロ離れているので、もちろん津波の被害はないが、地震の影響で、屋根が崩れたり、基礎にヒビが入っている家は多いようだ。
15時
目的地の、ご夫婦宅に着。
3年前に訪れた時と同じ笑顔で迎えてくれた。何度も電話では話したが、直接顔を合わせると少し安心する。
やはりこちらのお宅も例外でなく、家の屋根が崩れたり、風呂のタイルが剥がれたりなどの被害はあったそうだが、すでにご自分で修復済みだった。
家にお邪魔するとすぐに、震災後の話しをしてくださった。
地震から3日間は、外にテントを張って寝た事。
原発爆発後、60キロほど離れたいわき市にいる息子さんを伊達市に呼んだが、後々風向きが伊達市方面に吹いていたと、テレビで知らされた事。
お孫さんの通っていた中学校のグラウンドが、一番多い時で、毎時7マイクロシーベルト以上あった事。
ご夫婦宅の中は線量が低く、避難しなくてはいけないレベルではないそうなのだが
いわゆるホットスポットとして、特定避難勧奨地域に指定されている霊山町も隣町にあり、「安心」という訳にはいかない事。
もちろん、すぐに健康に影響がある訳ではないが、お孫さんを心配そうに見つめるご夫婦の目は、忘れる事が出来ないほど悲しい目だった。
2時間ほど会話をして、夕焼けがさして来た頃、ご夫婦は「地震だけなら‥まだよかったんだけどなぁ。」と呟いた。
「よかったら食材なんかを送りますよ‥
」
そんな提案をしてみたが
「市の方から毎週、食品の検査結果と各町の空間線量結果の資料が届くかららとりあえずはきっと大丈夫だろう。
もう一度爆発があったらすぐに避難するからその時はお願いするよ。」
おじさんは笑いながらそう言った。
17時30分
そろそろ帰ろうとすると、奥さんが手編みの子供用のセーターを渡してくれる。
ウチの子供に編んでくれたそうだ。
「原発が爆発する前に編んで、ちゃんとしまっておいた物だから、大丈夫だと思うの。
ちょっと前に贈ろうと思ったんだけど、お父ちゃんが、福島の物を今贈るのはやめどけ。っていうもんだから、どうしようと思っていたんだけど‥
本当にちゃんとビニールに入れて奥にしまっていたから、よかったらもらってくれるかね?」
もちろん喜んで頂き、車に乗った。
ご夫婦とお孫さんも、見えなくなるまで見送りをしてくれていた‥。
静岡に帰る道のりでずっと考えていた。
なんでこんな事になってしまったのか?
恩人の生活を脅かし、今や日本中までも脅かしている放射能とは一体どんな物なのか?本当にそんなに怖いものなのか?
これから何十年という単位で戦い続けないといけない。と言われてる、放射能問題。
すでに小さいお子様連れるママさんが多い当店では
食材の産地を気にしたり、外食を控えてるなんて声も増えて来ているのも事実。
1500キロの道のりを走り終える頃
まずは、放射能についてもう少し掘り下げて調べて、戦っていこうと決めた。
Posted by Honey!ハニー!! at 10:01│Comments(0)