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★定休日・営業時間が変わりました→定休日は毎週火曜日と第3月曜日!!毎週日曜日は張り切って営業致します♪ 営業時間Dinner 23時までと1時間長くいたしました。
2011年08月08日
旅の続き
話しは少し遡ります。
約10日ほど前の7月26日、改装による5連休の3日目。
22時半、1人で車に乗り込み、東名高速道路を東京方面へ向かった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
13年前自転車で袋井から北海道での旅の途中、熱中症のような症状で倒れていたところを助けてくれた
福島のご夫婦。
ラーメンを食べた食堂で、応援してくれてご馳走してくれた、宮城県登米市の津村食堂の女将さん。の2所を訪れたかった。
福島のご夫婦とは、今まで何度もやりとりをし、震災後も比較的早く連絡が取れて、原発が爆発したときも
ミネラルウォーターを送ったりしていたのだが
宮城の食堂の女将さんとは13年間会うことができず、あの時のお礼もできていなかったので震災後困っていないか連絡お取りたかったのだがなかなか連絡もつかず・・・・・。
最近になってようやく安否が確認できてお話ができたのだった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
首都高を抜けて、埼玉県羽生市のS.Aで2時間ほど仮眠して
一つ目の目的地、宮城県登米市に着いたのが朝の9時半。
女将さんと、当時ご馳走してもらった食堂で待ち合わせ。
13年ぶりにお会いした女将さんにまずあの時のお礼をすると、店のなかに
入れてくれた。
3月11日 震度7
そしてその後の余震により店内は隆起し、店に裏のがけはくずれ、とても
再開できる状況ではない為取り壊しを決断せざるをえない。との事だった。
そして店からすぐ近くのご自宅につれていってくれると、震災後の話をいろいろ話してくださった。
ご自分も被災したにもかかわらず、近くにある避難所にラーメンを作りに行くなどの活動もされてるそうで
13年前に教えてもらった、人を想う気持ちの大切さを、あらためて感じさせてくれた。
お店を継いでくれていた息子さんが今はガレキ処理をしてること。
放射能被害の深刻さなどを続けて話てくれて
僕も、静岡で毛布や物資を集めているとき、あの時頂いたラーメンの味、女将さんに頂いた優しさを思い出していました。
そんな話をした。
そして女将さんが
震災後なにも物が無いときに、すぐにいろんな所から物資が届いて本当にたすかりました。
そういってくれた時、心が少しだけ軽くなった気がした。
震災後すぐに毛布や物資を集めてくださった方々、改めてありがとうございましたm(__)m
そして女将さんは車で5分ほどで着く、南三陸町へ案内してくれた。
今までに2回おとずれた事のあったその町はガレキの山に変っている・・・・・。
少し高台にあった、13年前に1晩を過ごさせてもらったドライブインも、建物の半分位まで
津波が入ってしまい、閉店状態。
聞こえてくる波の音が、悲しい音に聞こえる。
自宅に戻ると、お嫁さんが帰ってきていたのでさらに話を聞いた。
震災後、家族と1週間連絡がとれなかった事。
実家が牛農家さんで、いま本当に困惑している事。
そして女将さんもお嫁さんも、最後は
「地震だけならまだ、しょうがないとも思えるんだけどねぇ。」と悔しそうに呟いた。
12時
車に乗り福島県伊達市へ目指す。
女将さんは車が見えなくなるまで見送ってくれた。
何の恩返しもできなかったけど
あの時本当にうれしかった事、その後北海道までたどり着いた事、自分もお店を出した事を伝える事ができてよかった。
しかし、改めての自分の非力さを感じ、怒りのような感情も覚えた。
伊達市に向かう途中、今までで一番美しいと思った景色。松島が心にかかり立ち寄る事にした。
約10日ほど前の7月26日、改装による5連休の3日目。
22時半、1人で車に乗り込み、東名高速道路を東京方面へ向かった。
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13年前自転車で袋井から北海道での旅の途中、熱中症のような症状で倒れていたところを助けてくれた
福島のご夫婦。
ラーメンを食べた食堂で、応援してくれてご馳走してくれた、宮城県登米市の津村食堂の女将さん。の2所を訪れたかった。
福島のご夫婦とは、今まで何度もやりとりをし、震災後も比較的早く連絡が取れて、原発が爆発したときも
ミネラルウォーターを送ったりしていたのだが
宮城の食堂の女将さんとは13年間会うことができず、あの時のお礼もできていなかったので震災後困っていないか連絡お取りたかったのだがなかなか連絡もつかず・・・・・。
最近になってようやく安否が確認できてお話ができたのだった。
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首都高を抜けて、埼玉県羽生市のS.Aで2時間ほど仮眠して
一つ目の目的地、宮城県登米市に着いたのが朝の9時半。
女将さんと、当時ご馳走してもらった食堂で待ち合わせ。
13年ぶりにお会いした女将さんにまずあの時のお礼をすると、店のなかに
入れてくれた。
3月11日 震度7
そしてその後の余震により店内は隆起し、店に裏のがけはくずれ、とても
再開できる状況ではない為取り壊しを決断せざるをえない。との事だった。
そして店からすぐ近くのご自宅につれていってくれると、震災後の話をいろいろ話してくださった。
ご自分も被災したにもかかわらず、近くにある避難所にラーメンを作りに行くなどの活動もされてるそうで
13年前に教えてもらった、人を想う気持ちの大切さを、あらためて感じさせてくれた。
お店を継いでくれていた息子さんが今はガレキ処理をしてること。
放射能被害の深刻さなどを続けて話てくれて
僕も、静岡で毛布や物資を集めているとき、あの時頂いたラーメンの味、女将さんに頂いた優しさを思い出していました。
そんな話をした。
そして女将さんが
震災後なにも物が無いときに、すぐにいろんな所から物資が届いて本当にたすかりました。
そういってくれた時、心が少しだけ軽くなった気がした。
震災後すぐに毛布や物資を集めてくださった方々、改めてありがとうございましたm(__)m
そして女将さんは車で5分ほどで着く、南三陸町へ案内してくれた。
今までに2回おとずれた事のあったその町はガレキの山に変っている・・・・・。
少し高台にあった、13年前に1晩を過ごさせてもらったドライブインも、建物の半分位まで
津波が入ってしまい、閉店状態。
聞こえてくる波の音が、悲しい音に聞こえる。
自宅に戻ると、お嫁さんが帰ってきていたのでさらに話を聞いた。
震災後、家族と1週間連絡がとれなかった事。
実家が牛農家さんで、いま本当に困惑している事。
そして女将さんもお嫁さんも、最後は
「地震だけならまだ、しょうがないとも思えるんだけどねぇ。」と悔しそうに呟いた。
12時
車に乗り福島県伊達市へ目指す。
女将さんは車が見えなくなるまで見送ってくれた。
何の恩返しもできなかったけど
あの時本当にうれしかった事、その後北海道までたどり着いた事、自分もお店を出した事を伝える事ができてよかった。
しかし、改めての自分の非力さを感じ、怒りのような感情も覚えた。
伊達市に向かう途中、今までで一番美しいと思った景色。松島が心にかかり立ち寄る事にした。
Posted by Honey!ハニー!! at 09:29│Comments(0)